日曜日。
朝のラジオ体操を終えた入居者たちは、部屋に戻ることなく食堂に留まっていた。 皆落ち着かない様子で、お茶を飲みながらその時を待っている。「そろそろ……ですね」
直希がつぶやくと、皆が一斉に生田の方を向いた。
「……ああ」
生田はお茶をひと口飲むと、そう言ってうなずいた。
しばらくして、車が二台入ってきた。それに気づくと、あおいもつぐみも落ち着きなく立ち上がった。
あおいは生田に近付き、耳元で何やら囁いていた。そしてその囁きに、生田が笑顔で答えている。 つぐみはうつむき、直希の袖をつかんだ。「どうしたつぐみ」
「どうしたって……分かってるでしょ、馬鹿」
「ほら、そんな顔するなって。ちゃんと笑ってあげないと駄目だろ」
そう言ってつぐみの頭を撫でると、つぐみは更にうつむき、肩を震わせた。
「生田さんの家族、そして生田さん自身の問題なんだ。俺たちに出来ることはやった。後は生田さんの決断を見守ろう」
「……うん、うん……」
「どうも、生田です。お邪魔します」
玄関に生田の長男兼吾と妻の仁美、孫の兼太、そして長女の祥子が入ってきた。
「こんにちは、兼吾さん。お久しぶりです」
「やあ直希くん。父さんが色々とお世話になったね、ありがとう。おや、みなさんお揃いで」
「ええ、生田さんを見届けたいって、みんな朝からここで待ってたんです」
「そうなのか。すまなかったね、折角の日曜なのに……ん? 見届けるって、どういう意味かな」
「それは生田さんから、直接聞いてもらえますか」
「あの、その……生田さん、これ……」
もう瞳を濡らしている菜乃花が、綺麗に包装された小さな箱を生田に手渡した。
あおいたちが仕事に追われている頃。直希は東海林の診察を受けていた。「どう? お父さん」 診察をひと通り終わらせた東海林が、不安そうに見つめる娘、つぐみに苦笑した。「大丈夫だよ。疲れが溜まっていたんだろう。それで弱ったところに風邪でももらった、そんなところだな」「よかった……」 父の言葉に、つぐみは脱力して大きく息を吐いた。「おいおい、いくら知り合いでも、患者さんの前でそんなに動揺するもんじゃないぞ」「うん……分かってる、ごめんなさいお父さん」「まあ、直希くんが相手なんだ、仕方ないとも思うがな。はっはっは」「もう……何よそれ……」「そういうことだから。直希くんも心配しないでいいよ」「ありがとうございました……じゃあ俺、仕事があるんで」 そう言って布団から出ようとする直希の頭を、つぐみが押さえつけた。「何馬鹿なこと言ってるのよ。今の話、聞いてなかったの?」「聞いてたよ。ただの過労だろ? それにほら、注射もしてもらったし、熱もじきに下がるから」「いい加減にしなさいよ、何であなたはそう……馬鹿なのよ」「ごめんな、つぐみ。でも俺が行かないと、夕飯の支度が……それに風呂だって」「もうみなさん、お風呂に入ったみたいだよ。それにほら、今は18時。もう食べてる頃だよ」「……でも、どうして……」「あなたね、あおいと菜乃花のこと忘れてるの? このあおい荘にはね、オープンした時と違って、優秀なスタッフが二人もいるんだからね」「あおいちゃんと菜乃花ちゃんが……」「もう少ししたら私も合流するから。だから直希は休んでなさい」「ただの過労だぞ
上は半袖シャツ、下はジャージを膝までまくりあげる。滑り止めの為、入浴介助用に購入したスニーカーを素足で履く。「では小山さん、お風呂ご一緒させていただきますです」 脱衣場。 車椅子の小山の前で腰を下ろし、あおいが笑顔で言った。「よろしくね、あおいちゃん」 そう言った小山の笑顔には、あおいに対する信頼が感じられた。 この信頼を裏切ることは出来ない。事故なく、小山さんに楽しい入浴時間を過ごしていただくんだ。 笑顔を絶やさずにあおいは、直希やつぐみ、そして講習でお世話になった教員の言葉を胸に、小山に声をかけた。「では服の方、脱がさせていただきますです」 そう言ってボタンを外し、上着から脱がせていく。「介護の基本は声掛けよ。どんな時でもまず、声をかけること。勿論笑顔でね。でないと、いきなりヘルパーが体を触ったら、何をされるのかと不安になるでしょ?」 はいです……つぐみさん、大丈夫です…… つぐみの言葉を思い出し、次に何をするのかを丁寧に、そして笑顔で伝えていく。 上着が終わると、次にズボンにかかる。「では小山さん、少し車椅子を移動しますですね」 そう言って、車椅子を少し壁側に移動した。 * * *「きゃっ! な、なんですかこれ……」「ははっ、驚いたろ?」「はいです。思わず足が上がってしまいましたです」 直希に車椅子の扱いを教えてもらった時のこと。 庭に用意された車椅子に、あおいが乗っていた。 そして直希が車椅子を突然押すと、あおいは慌てて肘掛けを握りしめ、後ろに体重を乗せた。「どうだった? 今の気持ち」「……なんかこう……うまく言え
「直希さん! 直希さん!」 あおいに寄り掛かったまま、意識をなくした直希。あおいは直希を抱き寄せ、何度も名前を呼んだ。「あ……あ……」 コップを落とした菜乃花は、呆然と直希を見ている。「菜乃花さん! おしぼりを持ってきてくださいです!」 いつもと違うあおいの厳しい口調に、菜乃花は我に返り、「は……はいっ!」 そう言ってカウンターに走った。「直希さん、しっかりしてくださいです。大丈夫です、私たちが何とかしますです」 直希の髪に指を通し、優しく撫でる。直希は苦しそうに、小刻みに息をしていた。「あおいさん、これを!」「ありがとうございますです。それからすいません、今すぐ東海林先生に電話してくださいです」「わ、分かりました」 おしぼりを額にそっと当て、汗を拭う。そのひんやりした感触に、直希が笑ったように思えた。「直希さん……こんなになるまで働いて……私が頼りないから……私がもっとしっかりしてたら……ごめんなさい、ごめんなさいです……」 あおいが肩を震わせ、直希を抱き締めた。 そしてしばらくすると小さく息を吐き、厳しい表情で菜乃花に言った。「菜乃花さん、先生はどうですか」「ご、ごめんなさい。まだつながらないんです」「分かりましたです。先に直希さんを部屋で寝かせるです。私が連れて行きますので、布団をお願いしたいです」「は、はい、分かりました。でもその……鍵はどこに」「ちょっと待ってくださいです。直希さん、失礼しますです!」 そう言って直希のスボンのポケットに手を入れる。そして中を探り、鍵を取り出した。「はいです菜乃花さん! お願いします
「そう言えばそうですね。最近直希さんが洗濯してるところ、見てないです」 食堂であおいと菜乃花が、おやつの準備をしながら話をしていた。「そのことなんですけど……その話、私たちにも関係あるんです」「そうなんですか? 直希さんのお仕事が減るのは、いいことだと思いますです。直希さん、ずっと働き詰めですし」「そう、ですよね……考えてみたら、私たち三人がここで働くまでは、全部一人でしてたんですから」「休みもなかったと聞いてますです」「本当、働き者ですよね」「直希さんには、もっともっと自分の時間を持ってもらいたいです」「……つぐみさんと、ここがオープンしたばかりの頃に言い争ってたことがあるんです。そんなに何もかも一人でやってたら、いつか体を壊すって。つぐみさん、あの時かなり怒ってました」「直希さんは、何て言ってたんですか?」「俺は倒れたりしないって。それはもう、すごい勢いで」「何となく……想像出来ますです」「でも、つぐみさんも引かなくて。それでももし倒れたら、このあおい荘を誰がやっていくんだって。だからスタッフを雇って、効率よくしなさいって」「そういう意味では、今はつぐみさんの思ってた通りになってるんですね」「はい、確かに今はそうなんですけど……その時直希さん、言ったんです。このあおい荘は、自分がずっと思い描いてきた理想の施設なんだ。今ある他の施設では出来ないことを、やっていきたいんだ。それに賛同してくれる人、自分が心から信頼出来る人に出会うまでは、一人でやっていくんだって」「直希さん、そんなこと言ったんですか」「はい。それでつぐみさん、泣いちゃって……あなたが理想としている介護、それは理解出来る。でもその理想を共に背負ってくれる人になんて、簡単に出会える訳がない。あなたの理想は、献身を通り越した自己犠牲でしかないんだからって」
「ではでは文江さん。血圧測らせてもらいますです」 朝のバイタルチェック。つぐみが見守る中、あおいが直希の祖母、文江に腕帯を巻いて測定する。 あおいが使用している血圧計は、市販の測定器。つぐみは水銀式にこだわっているが、最近の電子計測器でもかなり正確な数値が出るようになっているので、あおいたちが使用する分には構わないと許可を出していた。「はい、終わりましたです。文江さん、今日も健康そのものです」「うふふふっ。ありがとう、あおいちゃん」「うっ……」 つぐみが口を押えてうつむく。「どうしたんですか、つぐみさん」「あ、うん……あおい、立派になったなって思って……」「ええええっ? 血圧測っただけでですか?」「うふふふっ。つぐみちゃん、毎日大変だったものね」 * * * あおいを連れて初めてバイタルチェックに行った日。 この日はつぐみが、各部屋で入居者の血圧を測っていた。 まずは私の動きを見ておきなさい、見て学ぶことも大切だから。 つぐみの言葉にうなずき、あおいはつぐみの動きを観察した。 体温、血圧を手馴れた様子で測っていき、そして前日の排便等を聞いて記入する。その後、体調に変化がないかを確認し、気になったことがあれば記録する。 そしてその間中、ずっと笑顔で接していた。「じゃああおい、私の血圧、測ってみなさい」「あ……は、はいです!」 昼の休憩時間を利用して、食堂での測定講習が始まった。 腕帯を手に取り、つぐみの方を向く。「朝、私が測ってたの、ちゃんと見てたわよね。その通りにすればいいのよ。6人分の計測を見てたんだから、出来るはずよ。私を入居者さんだと思って、声掛けも忘れないようにね」「は、はいです…&helli
「どう? ちょっとは慣れたかしら」「あ……はい、大丈夫です。先週ぐらいまでは次の日痛かったんですけど、最近はそうでもないです」「そ、よかった。私も筋肉痛の呪いからは、脱出出来たみたいよ」「でもこれって……どれくらい続けたらいいんでしょうか」「個人差があるからね、何とも言えないわ。でも私たちの目標は来年の夏なんだから、まだまだ時間はたっぷりあるわよ」「そう……ですよね。すいません、変なこと聞いちゃって」「それにね、こうしてトレーニングの後、しっかり食べた方がいいって本に書いてあったの。あおい荘で食べられないのは寂しいけど、でもこうして、菜乃花と一緒にトレーニングしてご飯食べるの、楽しいわ」「あ、ありがとうございます。私も楽しいです」 今日はラーメン屋に寄っていた。 トレーニング後の食事にも慣れてきたのか、二人共結構な量を食べていた。にんにく入りラーメンに焼き飯、そして餃子を一人前ずつ。今までの二人には考えられない量だった。「菜乃花、あなた大丈夫? 無理して私と同じ量、食べなくてもいいのよ」「大丈夫です、その……私、最近なんだか食べる量が増えてるみたいで」「そうなんだ。ひょっとしたら、ちょっと遅れてやってきた成長期なのかもね」「だったら嬉しいんですけど……出来たらその、身長ももう少しほしいなって」「そうなの? 背の高い女子から怒られそうな意見ね」「そうなんですか? 私はもう少し身長、ほしいと思ってるんですけど」「ちっちゃくて可愛くて。私たちにとったら夢のような容姿なのにね」「そんな……私、可愛くなんてないです」「呆れた、自覚なかったの?」「自覚……というか、確かにその……そう言われることもありますけど、でもその&helli